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ロータス・カルテット コンサート・レヴュー

紙名不肖 記: 2002年11月ダルムシュタット

日曜のコンサート
茶目っ気にあふれたフィナーレ 
         
記事:クラウス・トラップ

ダルムシュタット発。ダルムシュタットのカロリーネンザールで数年にわたる企画となっている、ベートーヴェンの全弦楽四重奏曲チクルスの最後から2番目のコンサートを、ロータス・カルテットは作曲家の最後の四重奏曲、作品135でスタートした。日本人である小林幸子、藤森彩、山碕智子、斎藤千尋は、この作品の静かで意味深い快活さを的確に表現した。きちんとした演奏と完璧なバランスの響き、そして明快な構成でもって彼らはこの4楽章を形作った。そして、謎めいた「そうあるべきか?・・そうあるべきだ!」の書き込みをもつフィナーレは、ベートーヴェンが運命的なものよりも何かいたずらっぽさをこめたとされる推測を思い起こさせるものだった。
 ラズモフスキー・カルテット作品59の2番、e-Mollも弾みがあって、音が美しく、そしてわかりやすいものになっていた。緻密にモティーフを織り込んだ構成は、多様な奏法によって実に分析的に明らかにされていた。そしてこの解釈にあっても、前につき進む激しさが働いていた。スケルツォの中の「ロシア風主題」の対位法的な処理は少し田舎風で、それに続くプレストによるフィナーレは休むことのない強行軍のようであった。
 このコンサートのクライマックスは、7楽章構成の作品131、cis-Mollの演奏であった。冒頭章の表現豊かに歌いつくす自由なフーガから、おしまいのエネルギッシュなアレグロにいたるまで、おびただしい数の主題とメロディの構成を、説得力を持って一つにまとめる一本のアーチがかけられていた。そこでは次のことが明らかにされていた。すなわち、この作品において即興的に聞こえるものは、実はきわめて正確に計算されているということである。結成10年の、シュトゥットガルト在住のこのカルテットの卓越した業績である。拍手が熱狂的に長く続いた後、ハイドンの作品76の1からC-Durのアダージオが、アンコールとして感情細やかに演奏された。
スケジュール:このチクルスの最後のコンサートは2003年秋の予定




マイン・エコー紙(アシャッフェンブルグ) 2002年11月1/2日付け

作品への集中した入り込み
ロータス・ストリング・カルテットはダルムシュタットのカロリーネンザールで熱狂的にたたえられた。
 日本女性4名からなるロータス・ストリング・カルテットは、以前同ホールに登場したときと同様に、そのベートーヴェン・チクルスにおける更なる3作品を華々しく弾き終わると、今回も熱狂的な拍手を獲得した。その成功は、高貴な楽器(ガブリエリとガグリアーノのヴァイオリン、ダラ・コルテのヴィオラ、グランチーノのチェロ)の響きだけでもたらされたのではなく、強弱法への配慮や、確実なイントネーション、そして合奏の均質性と正確さに関して、なんら注文のつけようのない演奏によるものであった。
この極東出身で受賞経験も多い音楽家たちにいつも繰り返し驚かされるのは、多大な集中力を持って、ベートーヴェンのような作曲家の思考と響きの世界に身を置き換え、そして最も微細なディテイルにまで確信を持って、その構造を伝える彼らの能力である。このことは特に、今回演奏したうちの2曲も含まれる、後期の作品についていえる。まして作品135、F-Durは、巨匠の最後の弦楽四重奏曲であり、これを彼らが冒頭においたことは、「プログラム・ドラマトゥルギー」上、熟慮されたものである。
熟慮といえば、ユニゾンと見事なクレシェンドをそなえた導入章の現代的とも言えるテンポも、熟慮されていた。正確なリズムのヴィヴァーチェで、無愛想なffパッセージが美化されることなく弾かれるまでは。数あるカルテットの楽章の中でも、最も高貴でゆっくりとしたもののひとつといえるこのレント・アッサイを貫くほとんど厳粛といってもよい静けさは、「魂のいやし」であった。そこでは息をすることすらはばかられた。最終スコアにあるベートーヴェン自筆の注釈に厳密に従っていた。すなわち、この「そうあるべきか?」は、痛みさえ伴うためらいを表現する。その一方で、「そうあるべきだ!」は、これ以上和やかに、これ以上肯定的には決して演奏できない、というようなものである。
作品59の2、e-Mollのカルテットは、作曲家が作品18のカルテットを超えて大きく飛躍を遂げた例の3作品の2番目である。そして彼女たちは、まさにその作品のすばらしさを、感動的な演奏によって明らかにした。その演奏は、ジュリアード・ストリング・カルテットの最良期に行われた伝説的な録音にさえ、まったく匹敵するものだった。焦燥に満ちた冒頭章のテンポは力強く押し進むようであった。深い沈潜と、音の美しさ、その時々でメロディを担うパートを強調しつつ、モルト・アダージオが続いた。例の「ボリス・ゴドノフ」のメロディが、緩やかなスケルツォに見事に挿入された。そしてフィナーレの「馬に乗っているかのような」主題が極度の緊張を作り上げ、それはやっとブラヴォーの声によって開放された。
 このところ、この作品131、cis-Mollのカルテットがこのコンサートホールで演奏されたのはこれで三度目である。続けて演奏されるこの例外的な作品において、彼らは、先立つコンサートの論評のレベルに達しただけにとどまらない。彼らは、すでに言われてきた彼らの美点の全てを、作品の部分部分の違いの大きさを強調する彼らの演奏に、またしてもこめることに成功した。その演奏は、はじめから終わりの瞬間まできわめて正確に考えつくされていた。最後の喝采は当然のものであった。

記事:ヨアヒム・シュティア


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