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ロータス・カルテット コンサート・レヴュー


2024年4月16日 ハイルブロンのハーモニーでのコンサート
ハイルブロナー・シュティメ紙 2024年4月18日付
記事:ニーナ・ピオール

鋭い感性が生む陰影
ロータス・カルテットが ハイルブロンの‘クルトゥアリング’に来演


 余計なものがなく,そしてなお輝きを放つ一体化した響き。それが、シンプルな彼らの演奏スタイルにおいて、ハーモニーと強弱に極めて精緻な変化をつけることを可能にしている。今シーズンのクルトゥアリング第6回コンサートにおいて、ロータスは細やかに感情のこもった、繊細でありながら表現力豊かな演奏で期待に応えた。メンバーはヴァイオリンの小林幸子、スヴァンティエ・タウシャー、ヴィオラの山碕智子,チェロの齋藤千尋の4人で、彼らの要求の高いプログラムには、ハイドン、メンデルスゾーン、ブラームスの3作品が年代順に並んだ。

 高い密度。1772年に完成したハイドンの作品20は《太陽四重奏曲》と呼ばれる。ハイドンはこの作品で、明らかな意図をもって、それまでに出版されていた自身の曲を技巧と多様さにおいて超えたのである。実際のところ、《弦楽四重奏曲ハ長調作品20ー2》の音楽的動機と主題の密度は高い。第1楽章モデラートが晴れやかに躍動して始まると、ロータスは個々の旋律フレーズの楽器間での受け渡しも心得たものである。対して,第2楽章アダージョは慎重に考えぬかれたユニゾンで始まり、それが奏者たちのビブラートによって輝きを得る。柔らかく暖かな齋藤のチェロに導かれて響きは変化して行き、ついには繊細な旋律の織物へと紡がれていく。メヌエット(訳注*)では、山碕のヴィオラが奏でる珠のように美しいアルペッジョに伴われて第1ヴァイオリンの小林が抒情的に歌い,その感情細やかな対話に第2ヴァイオリンのタウシャーがそっと加わる。舞曲のようでありながら、かつ内面の落ち着きを感じさせる最終楽章アレグロによりこのハイドンの作品は全きものとして閉じられる。

 メンデルスゾーンが1847年,自身の死の2か月前に完成させた《弦楽四重奏曲へ短調作品80》は、亡くなった姉ファニー・ヘンゼルを悼む気持ちが顕著に刻まれている。第1楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイを支配する不穏で、引き裂かれんばかりに張り詰めた緊張感はチェロに導かれるトレモロの動機によっていっそう強まり,息もできぬほどのアッチェレランドで加速し頂点に達する。第2楽章アレグロ・アッサイでチェロとヴィオラのひそやかな対話は弱音(ピアノ)に抑えられているが、まさにそれゆえ強く胸に迫る。第3楽章アダージョの旋律はゆっくりとした歩みで展開してゆき、脅かすように浮かび上がるチェロの低音がその絶望的な気分を強調している。囁くような旋律の断片がいきり立つクレシェンドで激しさを増す最終楽章、ここでもロータスは胸を打つ激情をもって、そして優雅で洗練された演奏を見せた。

 ブラームスは1873年に自身初の弦楽四重奏である作品51の二曲を出版する前に、20以上もの四重奏曲を書いては捨てていた。この日ロータスがハーモニーで演奏したのは《弦楽四重奏曲イ短調作品51ー2》。第1楽章アレグロ・ノン・トロッポでは踊るように躍動する演奏。4人の奏者は第2主題も見事な美しさで明確に描き出し、その主題がかすかなピツィカートの絨毯の上を旋回しながら高みへと昇っていくさまは印象的であった。第2楽章アンダンテ・モデラートではチェロと第1ヴァイオリンの思案にくれるような対話が続く。そこに山碕のヴィオラが加わり、テンポを保ちながらも音楽に推進力を与えていく。

 対比。第3楽章のクワジ・メヌエットでは、速いテンポで刻む謎めいたフレーズが特徴的で、合間に現れるより穏やかな間奏部によってしばし安らぎを得る。最終楽章アレグロ・ノン・アッサイでは、音楽学で「ハンガリー風」とされるエネルギッシュな第一主題と、舞曲としてはより穏やかな「ウィーン風」主題が対比的に置かれる。この多様な顔を持つ最終楽章は、嵐のように激しい反復によってだけでなく、効果的に挟まれる休止もあいまってエネルギーを得ていく。
ブラームスとチャイコフスキーの2曲をアンコールとして続けて演奏。どちらもほとんどコンサート向けの長さでアンコールとしてはやや長かったが、ロータスは彼らが持つハーモニーと、陰影への高い感性を改めて証明してみせたのだった。

*「メヌエット(第3楽章)」とされているが、第2楽章中間部のことと考えられる。


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ミュールアッカー・タークブラット紙2019年9月24日付
記事 ディーター・シュナーベル
2019年9月22日 於:フラウエン教会(リエンツィンゲン)

非常に聴く価値のあるフィナーレ
ロータス・カルテットが19世紀の作品で“ミュージック・サマー”の季節を閉じる


 夏も終わりのこの日、コンサートシリーズ“ミュージック・サマー”2019の全6公演の最後となるコンサートがフラウエン教会で開かれた。このマチネーで演奏したのは、2008年から毎年このフェスティバルに招かれているロータスである。

 日曜日の午前に行われたこのコンサートで演奏されたのは、全て19世紀の作品であった。その内2作は標題音楽ではないものの、作曲家の自叙伝的性格を帯びるものである。コンサート冒頭には、いわゆる未完の作であるフランツ・シューベルトの《四重奏断章》ハ短調が演奏された。これはシューベルトが1820年12月に取り掛かりながら、結局完成することがなかったもの。第2楽章の第41小節以降、シューベルトがその企てを諦めてしまったからである。それにもかかわらず、第1楽章アレグロ・アッサイはD703として作品目録に入り、アンコールなどとして頻繁に演奏されてきた。何しろ、この曲は響き、和声、旋律の面で全く独自のインスピレーションが混ざり合った、極めてシューベルトらしいものなのである。そしてロータスもそれに相応しく、突然入れ替わるように並べられた二つの響きを表現した。ひとつは短調での四度順次下降にかかるトレモロの旋回する音型と、もうひとつはあこがれに満ちた長調のリート様主題である。

 この日のコンサートでは全体8分ほどのこの作品はアンコールではなく、オープニングであった。アンコールとしてロータスがとりあげたのは、フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディが1829年に作曲した弦楽四重奏曲第1番変ホ長調Op12から第2楽章カンツォネッタである。その主要主題はしばしば「無言歌」と描写される。

 しかし、この日のマチネーの中心となったのは自伝的と言われてきた二つの作品である。ひとつはメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲ヘ短調Op80であり、もうひとつはベドルジハ・スメタナの弦楽四重奏曲ホ短調で、演奏にはそれぞれ半時間ほどを要した。

 メンデルスゾーンの作品は作曲家自身が亡くなった年である1847年に書かれており、同年5月に先に亡くなった姉のファニーを偲んだもの。ファニー・ヘンゼル自身がピアニストであり、ピアノ曲や歌曲も書いており、19世紀の最も重要な女性作曲家とみなされることもある。メンデルスゾーンはこの弦楽四重奏曲の中で姉への想いをまとめ、彼女への、言ってみれば、レクイエムを書いたのだ。そのため、悲しみと陰鬱さが曲全体を支配しており、最後には悲嘆の情が解き放たれる。この作品が激情を形式によって制御している典型例とされているのは故なきことではない。そしてロータスによる解釈を決定づけていたのも「形式による激情の制御」である。その演奏は、厳しさと断固たる決意によって、のみならず陰影に富んだ表現の中に精神の深化を見て取れる傑出したものだった。

 スメタナが1876年に作曲した弦楽四重奏曲ホ短調には《わが生涯より》という副題がついているが、これは大方が感じる通り、適当につけられたものではない。というのも、1878年4月12日付の手紙でスメタナ自身が、この作品にこめた意図と、注意深く聴けば何を聴き取ることが出来るかについて述べているのだ。第1楽章に関しては、若き日の芸術への愛、言葉では到底表現できない何ものかへの憧れ、迫りくる災いへの予感と挙げている。第2楽章はスメタナがダンスに熱狂し、舞踊曲を好んで作曲していた喜びに溢れる青春期を表している。第3楽章は後に妻となる女性への愛が芽生えた時期を扱っている。第4楽章は突然襲い掛かった失聴によって結局は支配されていく。失聴により若き日の記憶と微かな希望が呼び起こされるが、結局は避けることのできない運命に屈することになる。この終楽章はピチカートによる3つの和音で諦めるように静かに終わる。ロータスは14年前から変わらぬ小林幸子、マティアス・ノインドルフ(共にヴァイオリン)、山碕智子(ヴィオラ)、斎藤千尋(チェロ)の4人で、この起伏の激しい作品を演奏し、それはあらゆる点で変化に富み、テーマに的確に沿うものだった。そしてペーター・ヴァーリンガーが率いる“ミュージック・サマー”2019の、聴きごたえのあるフィナーレとなった。



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プフォルツハイマー・ツァイントゥング紙2019年9月23日付   
記事:エッケハルト・ウーリヒ

コンサートシリーズ“ミュージック・サマー”で陰影に富んだ秋らしい色彩のコンサート
ロータス・カルテット 於:フラウエン教会(リエンツィンゲン)


 今年の“ミュージック・サマー”のフィナーレとして、ロータスがとてつもない表現力で、短調による秋らしい陰影に富んだ雰囲気のコンサートを繰り広げた。

 フラウエン教会で行われたこの日のマチネーは、フランツ・シューベルトの《四重奏断章》ハ短調D703の不穏に震える弦の音で幕を開けた。既にプログラム冒頭から、この激情に満ちた曲において、胸塞ぐ不穏さが退くことは決してなかった。かき回され、のたうつように進む小節たちの合間には繰り返し美しい旋律が歌われ、それは癒しと力を与えてくれたのではあるが。

 ロータス・カルテットは、芸術監督ペーター・ヴァーリンガーが率いるこのシリーズの長年にわたる常連であるが、彼らの演奏からはいつも4人の間の厚い信頼が感じられる。4声部が完全にひとつに溶け合いながら、同時にそれぞれの個性を際立たせている。意志なく紡がれる音はただのひとつもない。音楽は時にためらい、時に加速する。時に微かな、時に力強いアクセントがこめられ、特に見事なほどに揃ったユニゾンのパッセージにおいて、オーケストラを思わせる響きの極致が展開される。

 このことは特にフェーリクス・メンデルスゾーンの弦楽四重奏曲ヘ短調op80の演奏で感じられた。この作品は、メンデルスゾーン自身の死の数か月前に亡くなった愛する姉ファニー・ヘンゼルへのレクイエムとも言われてきた。演奏では、衝動と噴き出す感情が共に閃き、それは聴き手の感情を大きく揺さぶるものだった。
 
べドルジハ・スメタナは自らの人生の歩みを弦楽四重奏曲ホ短調《わが生涯より》に込めた。この日の演奏では、第一楽章でヴィオラ(山碕智子)が、警告する呼び声の動機をくっきりと描き出し、提示した。第2楽章の民族舞踊的なパッセージ、第3楽章のチェロ(齋藤千尋)の感性に富んだカンティレーネと、とても柔らかなヴァイオリンのメロディ(第1ヴァイオリン小林幸子、第2マティアス・ノインドルフ)が続く。そして、そこまで疾走してきた最終楽章は、人生に訪れた災厄を表す第1ヴァイオリンの保続する高音ハーモニクスのホ音(注:作曲家の難聴の始まりである耳鳴りの象徴)が他奏者の不気味なトレモロの上に鳴り響いて終わりを迎える。曲は沈み込み、響きが遠のいていった。

 聴衆の称賛を浴びたロータス、ミュージック・サマーでも最高の4人の弦楽奏者は、大変な情熱をもって敢然たる演奏を繰り広げ、聴衆の胸に後にまで残る強い印象を刻み付けた。



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2018年1月18日 ダルムシュタット州立劇場でのコンサート
曲目:ヨーゼフ・ハイドン:弦楽四重奏曲 ニ長調 作品20-4
   アンリ・デュティユー:《夜はかくのごとし》
   ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 嬰ハ短調 作品131
フランクフルター・アルゲマイネ紙 2018年1月26日付
評:グイド・ホルツェ

多様性の中の一体性
ロータス・ストリング・カルテットがダルムシュタットで会心の演奏


 全てが全てと結びついており、全体はそれを構成する部分全てを足し合わせた以上のものである。ロータスがダルムシュタット州立劇場で、その考え抜かれたプログラムによって伝えたのは、まさにこの全体論的世界観であった。組まれたプログラムの中の関連性は、コンサートが進むにつれ、いっそう明確になっていった。プログラムは導入として適切に選ばれたハイドンの弦楽四重奏曲ニ長調op20−4Hob.III:34で幕を開けた。短調への変調を繰り返し、悲しみと慰めに満ちた第1楽章が、早速この多様性の中の一体性を感じさせるものとなった。結成以来25年間成功を収めてきたこのアンサンブルの暖かく精妙に調和した響きの中で、その奥行きのある表現力が緩徐楽章の変奏部においてもいかんなく発揮された。そしてこの楽章中には、メロディラインを各パートに散りばめて受け持たせる古典的作曲手法がみられ、それはこの後に控えるベートーヴェンの前触れとなっている。機知に富んで軽快な最終楽章プレストで全てが明るく軽妙に一変したそのさまは、完璧な描出の中で、実にハイドンらしいものであった。
 1976年に完成されたアンリ・デュティユーの四重奏曲《夜はかくのごとし》、これが一体どのような関連性を持つのかは、この夜の終着点となる作品を考えれば、事情に通じた聴衆には明らかなことだった。デュティユーは自身初の弦楽四重奏曲であるこの曲に、既に作曲・構成に熟達していた50代後半の3年間を費やしているが、この天才的な作品はベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲嬰ハ短調作品131と同じく7楽章構成となっている。作品のタイトルから、そして曲のもつ雰囲気からも、これは一貫して夜想曲であり、内面に目を向けさせる。この曲は比較的新しい伝統を汲むもので、脅かすように青白く、孤独へと導いていくような?夜の音楽’を残したバルトーク、ヴェーベルン、シェーンベルクらを思い起こさせる。鏡面シンメトリー構造を持ち、形式芸術作品の極致として構想されており、音楽の小さな胚細胞がどんどん増殖していくような構成になっている。
第1ヴァイオリンの小林幸子、ヴィオラの山?智子、チェロの斎藤千尋、10年来メンバーであるヴァイオリンのマティアス・ノインドルフによる演奏は暗示的で、極めて連想に富むものであった。それはまるで、電子顕微鏡をのぞいてミクロコスモスの中の有機生命体か、あるいは分裂していく細胞を眺めるかのようである。音楽史上最も重要な室内楽作品のひとつと並べて演奏してもそれに堪え得るものであったことで、この曲の構成が確固としたものであることが明らかであった。
 ベートーヴェンの作品131と言えば、フランクフルトのアルテ・オーパーが2014年に、数週間にわたる音楽祭をひたすらこの作品に絞って開催したものである。このベートーヴェンの演奏においても多様性の中の一体性が基本的理念であった。この45分におよぶ大作が、楽章間を理想的な形でつないだことで、全体を貫くただひとつの流れの中にまとめられ、全く飽きさせることなく一気に通りすぎていった。よって解釈の質の高さには最高点がつけられる。表現豊かなアンコールがメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲ニ長調op.44−1から演奏され、これも一連の流れにぴたりとつながっていた。




ミュージカル・サマー
於:フラウエン教会(ドイツ、リエンツィンゲン)2017年7月23日
プフォルツハイマー新聞2017年7月25日付
記事:エッケハルト・ウーリヒ

〈ミュージカル・サマー〉で色彩鮮やかな響きが繰り広げられる


リエンツィンゲンのフラウエン教会で開催される〈ミュージカル・サマーは40周年を迎えている。今年も変わらずこの音楽祭のクオリティの高さを約束してくれるのがロータス・ストリング・カルテットのコンサートだ。4人のメンバーは毎年登場するたびに円熟味を増している。小林幸子とマティアス・ノインドルフ(共にバイオリン)、山碕智子(ビオラ)、齋藤千尋(チェロ)によるアンサンブルは各声部がひとつに融け合う素晴らしい響きを獲得しており、暖かで色彩豊かな、そして流れるようなサウンドが秀でている。
ロータスはこの日曜のマチネーをヨーゼフ・ハイドンの《太陽四重奏曲第2番ハ長調作品20−2でスタートした。これは2016年11月の〈Concertoで演奏された同じハイドンのカルテット《日の出に続くものと言えよう。この作品の第2楽章は、たっぷりとした広がりとメリハリのきいた独特の表情を持ち、極めてたおやかな部分もあるアダージョである。ロータスの演奏はこのアダージョを曲の核心部として際立たせている。いくつもの非常に美しい旋律の連なりから情感が表出され、余韻をひく。その後がらりと雰囲気が変わり、生き生きと脈打つようなリズムを持つフーガの最終楽章となる。
次に演奏されたクロード・ドビュッシーの《弦楽四重奏曲ト短調作品10は、形式においても色彩感においても先のハイドンとはっきりとした対照をなすものだ。4人の奏者はこの曲では、厳格な形式を持たず自在に、戯れるように流れていくメロディや、数多くちりばめられた装飾的なフレーズの眩いばかりの多彩さを強調し、第2楽章の‘Assez vif et bien rhythm衝(充分生き生きと、リズミカルに)では激しさを、また第3楽章では静かに穏やかに進んでいく響きを弱音器をつけて表現している。
休憩をはさんで、ロータスはベートーヴェンの素晴らしい《弦楽四重奏曲変ホ長調作品127を演奏。冒頭マエストーソの重厚な和音、第2楽章アダージョのどこか手回しオルガンを思わせる旋律と、バイオリンが美しく描き出す音型、第3楽章スケルツォのピチカートと躍動的なリズムのスタッカートのフレーズ、そして最終楽章の溌剌としたエネルギーが印象的であった。カルテットを愛好する人々にとって、この4人のソリストたちが交わす音楽の対話を直に聴くことができるのは喜びであり、また幸運なことである。




コンサート〈ミュージカル・サマー〉
プフォルツハイマー・ツァイトゥング紙 2016年9月27日付
評:エッケハルト・ウーリッヒ

ロータス・ストリング・カルテットが〈ミュージカル・サマー〉に客演


リエンツィンゲンのフラウエン教会における今年の〈ミュージカル・サマー〉は、最高の弦楽カルテットによる演奏で幕を閉じた。ハイドンの弦楽四重奏曲ニ長調《ひばり》作品64-5は、第1楽章アレグロ・モデラートの美しい旋律によって楽しかった夏に別れを告げる挨拶であるばかりでなく、第1ヴァイオリンが楽しげに歌い出す《ひばり》の歌の存在により、カルテットの第1ヴァイオリン奏者として本物であればその資質を発揮する絶好の機会でもある。
そして小林幸子(第1Vn.)にとってもその通りであった。マティアス・ノインドルフ(第2Vn.)、山碕智子(ヴィオラ)、齋藤千尋(チェロ)ら仲間の伴奏に乗り、弾くことをひたすら楽しむかのように、美しい音を響かせて思う存分出し切っていた。一部で暗い翳りを感じさせる第2楽章アダージオ・カンタービレにおいても第1ヴァイオリンの高い資質が要求された。軽快なテンポのメヌエットである第3楽章では、どちらかというと4人の奏者全てが同等のバランスで作り上げることが求められ、そして快活な最終楽章で求められるのは全声部が力強く一本の奔流へと合流していくことであったが、これはそこで生気溢れる演奏を見せたロータスの奏者たちがまた得意とするところである。
続いて演奏されたベートーヴェンの弦楽四重奏曲ヘ長調作品135も『ようやくついた決心』という添え書きによって知られるようになった。ロータスは早くも第1楽章アレグレットで、ベートーヴェンの予告する内面的な劇的緊張を悲劇的な基調で浮かび上がらせた。そして第2楽章ヴィヴァーチェを甲高い調子で、ワルキューレの騎行を思わせる激しい狂乱へと高めていった。重苦しく底知れぬ深さを湛えた葬送曲(第3楽章レント・アッサイ)がそれに続き、そして最終楽章で謎めいたピツィカートのパッセージにより終わりを迎えた。
シューベルトの弦楽四重奏曲《ロザムンデ》イ短調作品29/D804の演奏がロマン派の音色が醸す哀愁を漂わせ、多くの聴衆を集めたこの日のマチネーは全てがそろった完璧なものとなった。第2楽章アンダンテは夢見るように歌う演奏が素晴らしく、その有名な旋律がロータスによってしみじみと奏でられた。




音楽現代 '16. 5月号



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リエンツィンゲン〈ミュージカル・サマー〉最終コンサート2015年9月20日

リエンツィンゲンのフラウエン教会でカルテットの至芸

2015年の〈ミュージカル・サマー〉を締めくくるコンサート。ロータス・ストリング・カルテットの演奏後には安らぎと宥和が残った。

 先の日曜日、弦楽四重奏における傑作3曲で、リエンツィンゲンの今年のコンサートシーズンが幕を閉じた。国際的に著名なロータス・ストリング・カルテットが再び今年も招かれた。小林幸子(ヴァイオリン)、マティアス・ノインドルフ(ヴァイオリン)、山碕智子(ヴィオラ)、齋藤千尋(チェロ)ら4人の演奏家はこれで8度目の出演となるが、今回のマチネーをヨーゼフ・ハイドン後期の《弦楽四重奏曲作品77−1ト長調》でスタートさせた。いかにもハイドンらしい第1楽章の小気味よく愉快な出だしは、すぐに細やかに感情を通わせる四重奏となる。第2楽章アダージォでは、その明快な主題が極めて強靭に、そしてこの楽章を貫く大きな流れをしっかりと感じながら演奏され、そこには思いもしなかった深さが表れでていた。それはまるでユーモアに富んだ巨匠と思われることの多いハイドンが、その長い人生の最後に、彼の創造の源泉がいかに計り知れぬものであったかを我々に示そうとしたかのようである。4人の奏者はその泉へと深く迫り、そしてプレストで書かれた終わりの2楽章をいよいよ喜びに溢れ、軽やかに演奏した。特に第3楽章メヌエットのトリオはテンペラメントに溢れていた。
 ベートーヴェンの《弦楽四重奏曲第10番作品74》は、ハイドンが亡くなった1809年に作曲され、《ハープ・カルテット》の名でも知られている。この曲でもロータスは緩徐楽章を作り上げる名手であることを示した。独特の半音階を持つゆっくりとした導入部からして既に雰囲気たっぷりで、迫りくるアレグロへの予感に満ちたものになっていた。そのアレグロは全く突然に、そして力強く始まる。しかしそこから現れてくるのは、ベートーヴェン初期の作品の第1楽章に見られる目標へ向かって邁進する姿ではない。そうではなく、ここでは個々の楽器が完璧なポリフォニーの中で溶け合い、完全に一体化した響きとなっていくのだ。4人の手元で、‘ハープ’の名の由来となった特徴あるピッツィカートが生気あふれるリズムの中できらめきをみせた。ロータスは極めて丁寧に心をこめて旋律を形作り、それが短調のパッセージが持つ独特な色彩と相まって、第2楽章アダージォ・マ・ノン・トロッポは静かな中にもこのコンサートのひとつのクライマックスとなっていた。続いて第3楽章プレストが疾走するテンポで始まり、これは更にプレスティッシモへと高まる。この第3楽章は‘トリオを持つスケルツォ’から一般に想起されるものとはかなり違っている。激しい雷雨の後のように、この楽章は潮が引くように静まってゆき、そしてそのまま最終楽章アレグレット・コン・ヴァリアツィオーニへと流れ込む。たおやかでシンコペーションのきいた主題で始まるこの楽章で、またしてもロータスは形式を深く洞察し、細部に至るまで意義深い形に作り上げるその資質の全てを示したのだった。曲は結末に向かって劇的に登りつめると、予想外にピアノで消えるように終わる。これだけ見事な作品の最後に、なんと快いつつましやかさであろうか。
 休憩をはさんで次はメンデルスゾーンの《弦楽四重奏曲イ短調作品13》。この曲は1827年、ベートーヴェンの死の報せが届いて間もなく出来あがった。心から尊敬していたベートーヴェンとの関連が多々あるものの、当時18歳のメンデルスゾーンは既にこの曲で紛れもなく彼自身のスタイルを見せている。第1ヴァイオリンの天上的な高さと自由でカデンツァ風なところ、あるいはオーケストラを思わせる豊かな合奏と絶えまなく流れていく美しい旋律、これらの対比が印象的であった。カルテットとしての調和を大切にしながら、しかもより重要な、大きな音楽的連関を見出していた。素朴で北欧風の第3楽章インテルメッツォは、繊細なピッツィカートの伴奏がついており、聴く者の耳を引きつけていた。同様にほとんど宗教的といってよい雰囲気の二つのフーガにも聴衆は深く聴き入った。最終楽章プレストは第1ヴァイオリン以外の3パートが不穏に激しいトレモロを奏でる中、第1ヴァイオリンのレチタティーヴォで極めて劇的に始まった。4人の奏者は、中でも第1ヴァイオリンの小林が、繰り返しレチタティーヴォが挿入されるこの楽章を、激しく情熱的に前へ前へと進めていった。そして最後に第1楽章のゆったりとした序奏が感動的に回想される。この日のコンサートの中でまたも、卓越した作品が卓越した演奏によって弱音(ピアノ)で幕を閉じた。そして聴衆の元には安らぎと宥和の情感が残った。聴衆でうまったフラウエン教会には鳴り止まぬ拍手が続き、今回もまたロータスによって繰り広げられたカルテットの至芸
を称えたのである。

ファイヒンガー・クライスツァイトゥング紙 2015年9月23日付
記事:ジモン・ヴァリンガー



2015年9月20日 リエンツィンゲンの〈ミュージカル・サマー〉コンサート
ミュールアッカー・タークブラット紙2015年9月22日付抜粋


ハイドン《弦楽四重奏曲ト長調作品77》について
“ハイドンの弦楽四重奏曲が持つ洗練された上品さを愛情こめて聴かせることができるロータス、その朗々と豊かな響きに聴き入った”

“第1ヴァイオリンの小林幸子の完璧に澄んだイントネーションは快く、また4人の弦楽奏者が完全にひとつになっている様は驚嘆すべきである。それぞれ確固たる人格である4人が、各自本来の性質を混じり合わせてしまうことなく、ハーモニーの中で溶け合っていた”

“溌剌とした第3楽章、小林のヴァイオリンは羽のように軽やか、敏捷で生き生きとしており、一方で山碕智子のヴィオラは暖かい音でよく響き、アンサンブルに穏やかさを与えていた。第2ヴァイオリンのノインドルフは一見物静かだが、小林と共に完璧で実に冴えたデュオを聴かせた。チェロの齋藤はそのビロードのような音色で何度も見せ場を作っていた”


ベートーヴェン《弦楽四重奏曲第10番作品74変ホ長調》について
“演奏後の拍手がためらいがちに始まったのは、演奏がよくなかったからなどではなく、聴衆が音楽にすっかり浸りきっていたために、まずは現実に戻る必要があったからだ”


メンデルスゾーン《弦楽四重奏曲イ短調作品13》について
“ロータスはこの見事な作品に命を注ぎ込み、基本的に暖かな雰囲気を持つこの曲を最高に美しい色彩で包み込んだ。4人の奏者は、聴く者をすっかり音楽に引きこむ夢のような空間を作り上げた”



ロータスカルテット
2015年1月18日ヘッセン国立アーカイブ(ダルムシュタット)でのコンサート

2015年1月20日付 フランクフルター・アルゲマイネ紙評

<ロータスカルテットがシューマンを演奏>
親愛なるクララよ、失敬!


クララ・シューマンは、自邸で初めて夫の3つの弦楽四重奏曲作品41(イ短調、ヘ長調、イ長調)が演奏された際に、既にこの三曲について、実に詳細なコメント評価を下していた。これらの曲はわかりやすく、繊細によく作ってあり、どこをとっても“いかにも弦楽四重奏曲らしい“というものである。ただ、いつでも夫人クララによるよく計算されたコメントは、幾つかの点で全く逆に取っておく方が良かったりもする。ダルムシュタットのヘッセン国立アーカイブにおけるロータスのコンサートは、このことを十分納得させるもので、シューマン本来のスタイルに対して、確信以上の印象を与えてくれた。作品41の第1番においては、リズムで強調される内的不穏感を高めている。そこでは、お決まり通りに割り振られるテーマの展開の代わりに、ハーモニーが道から逸脱してずっと遠くまで踏み込んで行き、彼の採用した従来の形式に留まることのない地点にまで連れて行く。そして、続く曲の展開部分では、チェロの斎藤千尋が繰り返し何度も、このアンサンブル(ヴァイオリン:小林幸子、マティアス・ノインドルフ、ヴィオラ:山?智子)が厳として守る、弦楽四重奏の模範ともいえる構成の透明度を存分に活かして、低音部から湧き上がる感受性に堂々と形を与え、柔らかく繊細に織りなすカンティレーネを構築している。単一主題の予想のつかないような、気まぐれな変化で豊かな表現力をみせたシューマンから一転し、アンコールのモーツァルト弦楽四重奏曲《不協和音》ハ長調KV465の緩徐楽章では、今度こそ本当にクララの意味したところの弦楽四重奏曲らしい、非常に美しく、精緻に編みこまれた金銀の透かし模様のごとき演奏へと変わった。できれば、この見事に組立てられた演奏を聴いてクララ自身にその見解を見直し改めてもらえたらと願う。




2013年9月22日 フラウエン教会(独・リエンツィンゲン)に於ける
ミュージカル・サマー2013最終コンサート

2013年9月24日付
ミュールアッカー・タークブラット紙(記事:ルドルフ・ヴェースナー)

相対する感情の衝突
ロータス・ストリング・カルテットがベートーヴェンとシューベルトで
ミュージカル・サマーの幕を閉じる


先の日曜日、ロータスは感情表現に富む造形力と華麗な技量による演奏で、フラウエン教会でのミュージカル・サマー2013の最後を飾った。この日のプログラムは、ベートーヴェンとシューベルトの共に1826年に完成した偉大な弦楽四重奏曲2作品。この2曲は明と暗の、また内省に傾く心と人生を肯定的にとらえる心との間の明らかな対比に、精神的な共通点を持つ。

メンバーは日本出身の小林幸子(ヴァイオリン)、山碕智子(ヴィオラ)、齋藤千尋(チェロ)とドイツ人のマティアス・ノインドルフ(ヴァイオリン)。ベートーヴェンの《弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131》はベートーヴェンの死後になってようやく初演された。7楽章からなる特異な作品であるが、それら楽章は互いに密接につながっている。というのも曲全体は4つの部分に分かれており、つまり3つの楽章は続く楽章への移行部に過ぎない。この40分近くかかる作品がロータスの手により、溌剌と精彩ある音色で演奏された。深刻で悲哀に満ち、陰鬱な雰囲気の第1楽章では、豊かなアクセントとくっきりとコントラストの効いた解釈を展開した。第2楽章の柔らかなメロディと、幾度も現れるアダージオの響きは、特に心打つものであった。ロータスは、アダージオの心深くしみる憂鬱さをことさら強調していた。第5楽章プレストでは、湧き上がる根源的な力によって演奏は高まっていき、卓抜した技量に支えられ、感情たっぷりと、そして衝動的に踊るように曲の最終部へと移っていった。

このベートーヴェンの弦楽四重奏のように、シューベルトの《弦楽四重奏曲第15番ト長調D887》も光と闇の際立った対比と、長調から短調へ度々入れ替わることに負うところが大きい。この4楽章からなる作品をシューベルトは僅か10日間で書き上げた。4楽章を通して、交響楽的とも言える表現の密度の高さが目を引く。ロータスは第1楽章から、曲中に息づくコントラストの数々を徹底的に探っていった。曲に何か明るい兆しのようなものが広がっては、それが抑えられた感情に幾度もとって代わられるのだった。第2楽章アンダンテでは、魂のこもったメロディが繊細な金細工を編み上げるように、そして心に迫るように奏でられていった。最終楽章も舞踏のように快活であった。第3楽章スケルツォは、実に繊細にニュアンスを施され、それでいながら果敢なテンポで聴かせ、そして弦楽の華やかさとあいまって、基底にある明朗な雰囲気が前に出ていた。最終楽章は畳み掛けるように衝動的に形作っていた。ここでもロータスは、またも華麗な技量と感情を込めた造形力で聴衆を魅了した。この日の成熟した演奏によってロータスは、異論の余地なくドイツでもトップクラスのカルテットであることを証明したのだった。



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