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レイフ・セーゲルスタム 新聞・雑誌 掲載記事


音楽現代 '13. 4月号

大阪フィルハーモニー交響楽団
第465回定期演奏会


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音楽現代 '13. 4月号

札幌交響楽団
第556回定期演奏会


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音楽現代 '13. 4月号

読売日本交響楽団
第522回定期演奏会


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音楽の友 '13. 4月号

札幌交響楽団(第556回)


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音楽の友 '13. 4月号

大阪フィルハーモニー交響楽団(第465回)


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'13. 3月11日 朝日新聞 夕刊


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'13. 2月28日 日本経済新聞 夕刊


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'13. 2月19日 朝日新聞 夕刊


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'13. 2月7日 北海道新聞 夕刊



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音楽現代 '10. 5月号

読売日本交響楽団
第490回定期演奏会


 マーラーの交響曲第7番「夜の歌」、指揮はレイフ・セーゲルスタム。その演奏は自然な音調がマーラー独特の交響的響きを表現、夜の闇や安堵感などを感じさせ、また、マーラーの自然への愛着や人生観などへの反映をも感じさせた。
 第1楽章は低音楽器が効き、暗澹たる夜の表情、ハープによる天国的な奏楽や行進曲的勇壮さを加えて、夜の世界への没入するよう、第2楽章は和やかな牧歌的情景が想起され、ホルンや、バンダとしても使われたヘルデン・グロッケンも効果的に、安堵感が感じられた。第3楽章は精細な表現で、死の影のように闇がひたひたと忍びより、第4楽章はホルンの柔らかい吹鳴、ギターやマンドリンの趣ある表情も加わって、夜の甘い雰囲気を紡ぎ出した。終楽章はティンパニーが闇を打ち破り、金管は輝かしい吹鳴、緩急のめりはりをつけ、第1楽章の主題が満を持したように再現、最後を全曲中のクライマックスと高めた。
2月19日・サントリーホール
(菅野泰彦)




音楽の友 '10. 4月号 Concert Reviews

読売日本交響楽団(第169回)

 フィンランドの指揮者レイフ・セーゲルスタム(1944〜)を4年ぶりに迎えての演奏。今回はセゲルスタム作曲の交響曲も世界初演する。それがなんと第198番。200曲以上の交響曲があるというから恐るべし。この日はワーグナー《トリスタンとイゾルデ》前奏曲と愛と死、《マイスタージンガー》前奏曲の他、ハイドン「トランペット協奏曲」(ルベン・シメオtp)であった。セゲルスタムの指揮はハイドンではけっしてクリアーで明快な指揮とはいえない。むしろ重厚である。ただしトランペットは豊かな響きと確かな技法で聴かせた。特にアンコールでは超絶技巧的な技を見せた。《トリスタン》は、非常にロマンティックにしかもねっとりと指揮。《マイスタージンガー》も細部は気にしないで全体を壮大に作る指揮である。野太い音楽作りの指揮で押すため、聴き手には極めて効果的な反応を呼び起こす。さて「交響曲第198番」と聞いてあまり期待していなかったのだが、聴いて驚き。けっして綿密な作りではないが大音響で始まり実に効果的に聴かせる。コンセプトばかり主張してつまらない作品を書く近年の作曲家よりははるかに面白いのだ。音楽は何よりまず聴き手が退屈せずに聴ける音楽でなければならないだろう。セゲルスタムはそれを心得ている。様々な親しみ易いモティーフも用いるなどテクスチュアは単純だが聴かせる音楽だ。
2月13日・東京芸術劇場
(佐野光司)




レイフ・セーゲルスタム

プログラム
グリンカ:『ルスランとリュドミラ』序曲
グラズノフ:『ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82』
ドヴォルザーク:『交響曲 第9番 ホ短調 作品95(新世界より)』

ヴァイオリン:ニコラ・ベネデッティ
フィルハーモニア管弦楽団
於:ロイヤル・フェスティヴァル・ホール
(ロンドン、サウスバンク・センター内)

 レイフ・セーゲルスタムの堂々たる体躯は、スケールの大きな彼のスピリットをおさめるにぴったりである。指揮を始めると彼の両手は、大きく伸ばした腕の先で生気あふれて羽ばたく小鳥に変わる。ビートを刻むことはない。その結果はたいしたものである。フィルハーモニア管弦楽団がセーゲルスタムに応えて、華麗で颯爽たる演奏を見せる。セーゲルスタムが特に優れているのは、壮麗で規模の大きな作品、燃えるような生命力と色彩に溢れる作品を描き出すことにある。精彩を欠いた演奏になることがあまりにも多い作品が、彼の手にかかると再び生気とダイナミズムを帯びるのである。よく知られた、そしてすっかり手垢がついた感のあるグリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲が活力に溢れ輝きを放っていた。曲のもつ溢れんばかりの力が渦巻き湧き立つ。音楽が歓喜の歌を言祝いでいた。
 グラズノフのヴァイオリン協奏曲はあまり演奏されることがない。もっと評価されてしかるべき作品である。活き活きとしたメロディの美しい曲で、その職人気質を感じさせる作りは、細部まできっちりと確かなものである。極めて洗練された曲なのだ。ニコラ・ベネデッティ―楽器はストラディヴァリウス―が音楽に向かう姿勢は真摯なものである。曲の上昇局面ではしなやかに波打つ銀鈴のごときフレーズを聴かせ、ある時は優雅に水面を滑るようであり、また軽々と空を切るごとき弾きぶりは堂々として見事、そしてどこにも継ぎ目を感じさせぬとても美しいものであった。セーゲルスタムの指揮は配慮が行き届いていた。
 さて、『新世界』交響曲でセーゲルスタムは意表をつく演奏をみせた。彼が描いてみせたのはヨーロッパからアメリカに当てた挨拶状(注:この曲の副題は当時の新世界アメリカから故郷ボヘミアに当てたメッセージといった意と言われる)である。それは言ってみれば、ヨーロッパの伝統がアメリカの人々に送ることが出来る最も洗練されて華麗な宣言文なのである。それはまず、作曲家ドヴォルザークの命ともいえる民族意識を表明し、讃えさえする。それから、―威厳の輝きを保ちつつ―、ネイティヴ・アメリカンや開放されたばかりのアフリカ人奴隷の存在を、アメリカの将来の潜在的な力として認めるのである。と言っても、この演奏は安っぽいプロパガンダ用のポスターみたいなものでは決してなかった。ドヴォルザークの第9交響曲が、ヨーロッパの伝統が誇る最も完成度の高い音楽の何がしかをその内に秘めていることを、セーゲルスタムとフィルハーモニア管が自信に満ちてここに宣言したのである。

評:ケネス・カーター

2009年10月15日




ロンドン交響楽団/セーゲルスタム、クリスティン・ブルーワー
評:コリン・アンダーソン


マーラー『交響曲第10番 アダージオ』
リヒャルト・シュトラウス『四つの最後の歌』 『死と変容』作品24

バービカン・ホール(ロンドン)
2009年1月25日(日)

出演:クリスティン・ブルーワー(ソプラノ)
   ロンドン交響楽団_レイフ・セーゲルスタム(指揮)


 ほぼ同じ長さをもつ三作品で演奏会を構成する場合、ひとつ問題となるのはどこに休憩を挟むかである。『四つの最後の歌』に『死と変容』からの引用が入っていることを考えれば、この2作品を続けて演奏し、マーラーの未完成(今は演奏可能ではあるが)の交響曲第10番の冒頭楽章アダージオ一曲を休憩を挟んで演奏するという考え方もあったのではないか。ふたを開けてみれば、レイフ・セーゲルスタム(家庭の事情でキャンセルしたドナルド・ラニクルズを代演)がこの未完作品(未完とはいえ「マーラーの全て」が出ている)を演奏したのだが、それは聴く者が精根尽きるほどに心奪われるひと時であった。このマーラーの後に休憩が入っていれば、タイミングとしてはよかったと思われる。
 セーゲルスタムの成功は、彼が本当にアダージオで振ったことにある。それは、転調や皮肉な調子の舞踊風の拍子が自然に感じられるテンポであった(計測では31分かかっていた。平均は約24分)。楽章全体がひと呼吸で捉えられており、注意深く美しいヴィオラの序奏で始まる。セーゲルスタムは、指揮の振りは派手なのだが、自身の求めるものが何かについて全く迷いがない。確信を持ってアダージオの進行を企図し、それは厳粛でありながら尚も探求しつつ、苦悩というよりは諦観を漂わせ、それでいて苦しみがもたらす鋭さも失ってはいない。壮大な不協和音によるクライマックスはやや押さえた印象。しかしながら、「単楽章の交響曲」が効果的な終末を迎えるべく霊妙な雰囲気に変わっていくと、先ほどのクライマックスがもたらした浄化する効果がはっきりと感じられたのであった。

 クリスティン・ブルーワーといえば、すぐに(過度に?)リヒャルト・シュトラウスの『四つの最後の歌』が思い出される。確かに、彼女の演奏を耳にする機会は頻繁にある(先週はリヴァプールでチクルスを、また昨年のBBCプロムスでは、カリタ・マッティラを土壇場で救援してではあるが、初日に歌っている)。
 呼吸法とフレージングで幾つかの難があったことが、彼女の出だしに影響していたが、すぐに立て直すと経験を感じさせる演奏を繰り広げた。求められるだけの高揚感を表現し、セーゲルスタムがリードする表現上の見せ場(彼は音楽全体の穏やかな流れを損なうことなくそれを作る)をうまくものにしていた。そこには過度に物憂さを感じさせるものはなかった。『9月』の終結部でのティモシー・ジョーンズのソロ・ホルンは、デボラ・ネムタヌが『眠りにつく時』でみせた静けさの中に熱狂するヴァイオリンと同様に、特に感動的であった。長く伸ばす音でブルーワーがみせる強弱法の巧みさは羨ましいほどである。そしてブルーワーは、これらの詩にシュトラウスがつけた音楽の中の人間共通な要素と個人的な要素の間に素晴らしいバランスを見出していた。最後の歌である『夕映えの中で』では引きこもっていく感覚がはっきりと出ており、沈んでいく夕日を無理なく感じることができた。
 しかしながら、ブルーワーは多分に理想の「シュトラウス歌いのソプラノ」(今回も拍手喝采をあびた)なのかもしれないが、この作品は誘うような親密さをもって演奏することも出来るのだ。それが月並みな次元を越えて新たな局面を開いてくれる。例えばソルヴェイグ・クリンゲルボーンがサー・チャールズ・マッケラスの指揮でやってみせたように。あれは本当に記憶に残る演奏であった。
 『死と変容』で、指揮者は再びゆっくりとしたテンポをとり、冒頭部は絶望に沈んで重い。セーゲルスタムはまさに魔法の呪文の紡ぎ手だ。こちらは先ほどの『四つの最後の歌』の対極をいくもので、嘆きに包まれ熱気を帯びている。ロンドン響はあらゆる雰囲気によく対応しており、指揮者はディテールに光をあて、鮮やかな絵を描き出していく。この変容とは超越的なものというより、むしろ雷鳴轟くような恐ろしいものであったのだが、それでもなお我々人間は「この世から何処か」へと赴いて行ったのである。
 同僚のケネス・カーターは昨年のセーゲルスタムのロンドン響初演(遅かった)に衝撃を受けていた。今回セーゲルスタムは「コンサートを救うため」にロンドン響との再演を果たしたのであるが、両者は素晴らしい関係を築いたようである。今後のシーズンでもその関係が続いてほしいものである。

ディスコグラフィー

作品リスト


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