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ロータス・カルテット コンサート・レヴュー


シュトゥットガルター・ツァイトゥング紙

2005年12月26日 モーツァルトザールでのクリスマスコンサート

共演
ペーター・ブック
(チェロ)
ヴォルフガング・ギュットラー
(コントラバス)
コンラード・エルザー
(ピアノ)

この優雅な四葉のクローバー(注:ロータスのこと)は、メンバーの一人をシュトゥットガルトのヴァイオリニスト、マティアス・ノインドルフに交替したところである。チェリストのペーター・ブックを客演に迎えてシューベルトのハ長調の弦楽五重奏曲D956を演奏したが、この作品は長い演奏時間の間、終始その暗い雰囲気が続く。この曲は極めて慎重に、そして細やかに演奏され、まるで魔法にかけられたかのような瞬間の連続であった。アダージォの始まりでは、小林幸子のヴァイオリンが、まるで楽器がひとりでに鳴り出すかのように軽やかに響いた。そしてすぐに山碕智子のヴィオラと斎藤千尋のチェロが、それとひとつになるべく流れ込んでいくかのようであった。スケルツォの中のソステヌートのトリオは大変ひそやかに、しかしながら燃えるような情熱をたたえて響いた。
 聴衆は思いに浸った様子で休憩に入ったが、その後はシューベルトの別の一面、快活な面が披露された。彼の人生の中で比較的幸せであった短い時期に作曲された五重奏曲イ長調「鱒」(D667)がユーモアのきいた調和を展開する。厳かに始まったその曲は、ロータスの3人の女性奏者にピアノのコンラート・エルザーとコントラバスのヴォルフガング・ギュトラーを加えたメンバーによって、エネルギッシュに、そして知的で美しい響きの中に閉じられた。いや、まだすっかり終わったわけではなかった。なんと鱒の変奏部は楽しいアンコールとしてもう一度演奏されたのだ。




ケルナー・アンツァイゲ 2005年10月11日掲載


2005年10月9日 ベンスベルク

演奏曲目
ハイドン:弦楽四重奏曲 ニ長調 op.50-6
メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲 第3番 ニ長調 op.44-1
ドビュッシー:弦楽四重奏曲


この日本とドイツで研鑽を積んだ演奏家たちが、いかに日本的完璧とドイツ的な内面の深さを結合させているかは注目に値する。
そのハイドンの演奏は、並外れて気持ちを湧き立たせ推進力に満ちており、卓越した技量と自在な変化に富んでいた。第一ヴァイオリン以外のパートが強く出たのは所々だけであった。 この作品の中間2楽章(ポコ・アダージォとメヌエット)をこんなに楽しく聴けることはめったにあるものではない。




シュトゥットガルター・ナッハリヒテン紙  2005年10月5日掲載

10月4日 シュトゥットガルト リーダーハレ

ウェーベルンの演奏は自然美の変容であり、ロータスによるまさに天上のごとき演奏は、かのジェームス・ジョイスの詩「室内楽」の冒頭を思い起こさせる。「大地と大気にみちる弦が甘美な音楽を奏でる・・・」




シュトゥットガルター・ツァイトゥンク 2005年10月5日掲載

10月4日 シュトゥットガルト リーダーハレ

演奏曲目
ハイドン:弦楽四重奏曲 op.50-6
ウェーベルン:弦楽四重奏曲(1905)
細川俊夫:ランドスケープ T
ドビュッシー:弦楽四重奏曲


ロータス・カルテットは世界的に見ても最高の水準にあることは、次のウェーベルンの弦楽四重奏曲(1905年)で明らかになった。ウェーベルンは、この作品では音色を構成要素として扱い、ぎりぎりまでそぎ落とされたメロディーを後期ロマン派的なエスプレッシーヴォで覆っている。ロータスはそれら全てを、見事なまでに詩的に濃縮された響きで演奏した。ウェーベルンに続き、細川俊夫のランドスケープT(1993年)ではそのひそやかな美の世界を、洗練にまで高められた詩的な感覚をもって探っていった。硬い輪郭をもつリズミカルな部分と柔らかに振動する背景の音の風景の逆説的ともいえる融合が、まさに完全に成し遂げられていた。
更に、ドビュッシーの弦楽四重奏曲の演奏も賞賛しておきたい。このロータスの演奏ほどにドビュッシーを、構成をも重視すべき響きの魔術師として真摯に取り扱うことはなかなかあるものではない。




シュトゥットガルター・ナッハリヒテン紙 2005年10月4日掲載

2005年9月30日シュトゥットガルト リーダーハレ(モーツァルトザール)
「ウィルヘルム・メルヒャー(メロスQ 1st ヴァイオリン奏者)追悼演奏会」
メロスQの残された3名のメンバーとメロスQが教えた、ロータスQらが出演

ロータスの演奏による極めて繊細で柔らかなブラームスのイ短調のカルテットを聴いて、良い教師は、生徒が独自の音楽性を伸ばすように導くものだと実感された。その演奏は、メロス四重奏団が1986年の同作品のCDで聴かせた、あの対比に富んだ劇的緊張とは対極にあるものであった。



エスリンガー・ツァイトゥング紙  2005年10月4日掲載

同じく9月30日のメルヒャー追悼演奏会について

いぶし銀のごとき荘厳
ロータスがブラームスのイ短調のカルテット作品51-2(*注)で聴かせたのは、打ちひしがれた内面、といったとっつきのよいアプローチではない。そこにあったのは、あくまで暗い響きではあるが、理想とする創造形態を追い求める心を反映するものであった。このブラームスの作品では、哲学的充実といぶし銀のような荘厳がそなわっていた。しかしながら、第一ヴァイオリンのヴィブラートの使用に若干過ぎた感もある。アンダンテでみせた壮大な輝きは卓越したものであった。
(*注:原文では“op.56“となっているが誤りと思われるので512にしています)



ノイエ・ロットヴァイラー・ツァイトゥング紙 2005年9月30日掲載


2005年9月29日ロットヴァイルでのコンサート

ハイドンの弦楽四重奏曲「蛙」は、引き締まって活き活きとした組み立てに仕上がっていた。動機と主題が全くわかりやすい、そして実に自然なアーティキュレーションとフレージングで表現された。明瞭で常に確実に把握しうる輪郭をそなえながら、純粋な「心地よさ」も欠いていない。響きはたいへん均質であったが、高いポジションでは「ラフな」響きもあった。緩徐楽章では内面的で深く満ち足りた静けさによって、個々の休止さえもが息を潜め耳をそばだてて「聴きとりうる」静寂であり、音楽的現実になっていた。
ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲では、この4人の演奏によって聴衆は曲の構成を探る「探索」に加わることが出来た。思索することと音楽的な経過を徹底して重視することで、複雑な要素をも常に明快に構成し、わかりやすくはっきりと描きだすことに成功していた。そこでは音楽上の対立葛藤を決して取り去ってしまわず、その対立の徹底的な鋭さの中で苦痛なまでに不協和に追及しつくしていた。 彼らの確かなチームワークには特に触れておきたい。この極めて質の高い演奏は、全く同等な関係のパートナーシップにおいても忘れがたいものであった。
シューベルトの、ほかに類のない、そして全室内楽曲の中でも唯一この編成による弦楽五重奏曲の演奏は、聴衆に音楽的宇宙を展開して見せた。驚くほどシューベルトの音楽的思考に満ち溢れ、個々のメンバー同士の連携は豊かであり、シューベルトのもつメロディと、それに結びついた和声の美しさ、およびその表現の深さが、シューベルトの典型的な「歌いと語り」、音楽の物語の中で明らかにされた。
このコンサートは、ここロットヴァイルではもう長く記憶にないほど、音楽上の一大事件であった。それだけに、感謝に満ちた喝采が長く続いた。




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