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「時の終わりのための音楽」について アルトマン氏によるメシアン他 紹介文 |
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「コンサートへ行く時、私は涙を流したいのです。だからもし私が泣いていなければ、 それはつまり、(コンサートが)良くなかったということです」 (O・メシアン、1982年3月ルクセンブルクにて) オリヴィエ・メシアン(1908−1992) クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノのための《世の終わりの為の四重奏曲》(1941) 第1楽章 水晶の典礼 第2楽章 世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ 第3楽章 鳥たちの深淵 第4楽章 間奏曲 第5楽章 イエスの永遠性への賛歌 第6楽章 7つのトランペットのための狂乱の踊り 第7楽章 世の終わりを告げる天使のための虹の混乱 第8楽章 イエスの不滅性への賛歌 この四重奏曲がゲルリッツにあったドイツの捕虜収容所で作曲された経緯については多くの神話がある。当時一般的ではなかったこの編成は、共に捕虜となっていた以下の音楽家の存在により実現した。即ち、ピアノのメシアンの他、クラリネットのアンリ・アコカ、ヴァイオリンのジャン・ル・ブレール、チェロのエティエンヌ・パスキエである。初演は1941年1月15日に、劇場として使われていた兵舎で行われた。聴衆は捕虜とドイツ人将校合わせて300〜400人。状況がそのようなものであったにせよ、この作品を特徴づけているのは、メシアンの全作品に共通するパラダイム、即ちカトリシズム、音色、リズムである。この四重奏曲の根底にあるのは、新約聖書のヨハネの黙示録の預言者の言葉である。メシアンは聖書の文章と向き合うことを、ある種の霊的な瞑想であると述べている。ある一定の状態に達して初めて、聖書や関連する宗教的文書のテキストに取り組めるのだと。共感覚の持ち主であるメシアンにとり、音と色彩は一体のものである。それにより感じとられる「響きの感触」(和音や旋法)によって、色彩は音響的に等価なものへと換わる。メシアンの作品中の多くが新しさを感じさせるが、彼自身はクロード・ドビュッシー(1862−1918)らの伝統に連なる。ドビュッシーも《ラ・メール》で自然界の現象を音楽で表現している。しかし、メシアンが終生にわたり最大のインスピレーションの源としたのは鳥のさえずりであった。これについてメシアンは、「バルトークが民謡を集めるためにハンガリー中を廻ったように、私も鳥の鳴き声を書き留めるために長年フランスの地方をあちこち廻りました。これは途方のない、そして終わりのない作業です。しかしその作業によって私は、音楽家としての正当性を再び得ることができたのです」と語っている。 この幻想的な作品の中心には時の終わりを告げる天使の姿がある。天使は雲の衣に身を包み、虹の冠を戴いて、右足は海に、左足は大地に置いている(第2、及び第7楽章、全楽器)。その手には書物を持ち、第7の天使がラッパを吹き鳴らしたなら、もはやその後には時はないと告げる(第6楽章、全楽器)。メシアンが使った8楽章という構成は、完全な数である7(注:天地創造に続く7日目)を象徴しており、更に安息と永遠性を求め、消えることのない光と永続する平安の8日目にまで引き延ばされたもの(第8楽章、ヴァイオリンとピアノ)。天使が右足を置く海は、遥かに遠い神と忘却の地を象徴している。それに対し鳥たちは、我々人間の光への、星々への、虹への、そして歓喜の声で歌い尽くすことへの憧れを象徴する(第3楽章、クラリネットのソロ)。中間部の2つの楽章は、感情世界の両極端を表すものともなっている。即ち、生気に溢れユーモアを感じさせる間奏曲(第4楽章、ヴァイオリン、クラリネット、チェロ)の後には、イエスの不滅性を賛美するスケールの大きな瞑想の楽章(第5楽章、チェロとピアノ)が続いている。 モーリス・ラヴェル(1875−1937) 20分 ヴァイオリンとチェロのためのソナタ(1920/1922) 《クロード・ドビュッシーの追憶に》 第1楽章 アレグロ 第2楽章 トレ ヴィフ 非常に活発に 第3楽章 ラン ゆるやかに 第4楽章 ヴィフ、アヴェック アントレーン 元気よく、活発に この曲が持つ独特のトーンは、これが追悼のために書かれたことによる。特に緩徐楽章における深い静けさに満ちたフレージング(途中突然激しい高ぶりを見せる)がそれを印象付けている。このソナタはラヴェルがクロード・ドビュッシーの思い出に捧げたもの。第1楽章は先立つ1920年に、雑誌「ルヴュ・ミュジカル」が1918年に亡くなったドビュッシーのために組んだ追悼企画のために作曲していた。ラヴェルはこのドビュッシーへのオマージュを、後に完全なソナタとして完成させたのである。 冒頭楽章アレグロは比較的単純な3つのモティーフを扱いながら、しかし長三度と短三度が絶え間なく入れ替わることで風変わりな印象を与えている。それが厳格な対位法を用いてカノンへと展開する。非常に速いスケルツォの第2楽章は主に激しい、バルトーク風のピチカートを使っており、合間に弓を用いた柔らかなパッセージをはさむ。終盤にヴァイオリンのスル・ポンティチェロ(注:弓で駒寄りを擦る特殊奏法)とチェロによるピチカート・グリサンドが合わさって最後の落ちを迎える。第3楽章ラン(レント)は導入部のチェロのソロがもたらす内面的な静けさが魅力。この楽章が悲嘆を表す中心となっており、最終楽章では万華鏡のようなダンスのリズムが取って代わる。 グスタフ・マーラー(1860−1911) 15分 アンサンブルのための4つの歌 M・ウッキ編曲 1. “ラインの伝説”《少年の魔法の角笛》より 2. “無駄な骨折り”《少年の魔法の角笛》より 3. “高き知性への賛歌”《少年の魔法の角笛》より 4. “私はよく思う、子どもたちはちょっと出かけただけなのだと”《亡き子をしのぶ歌》より グスタフ・マーラー(1860−1911) 7分 アンサンブルのための“私はこの世に捨てられて” 《リュッケルトの詩による5つの歌曲》(1901)より M.ウッキ編曲 メシアンとラヴェルという20世紀前半フランス音楽における傑出した存在に対し、全く異なる音色と情感を持つ音楽を対置すべく当プログラムに取り入れたもの。特に、マーラーが長調、短調の調性を駆使して得た豊かな表現性はメシアンの音楽には見られないものである。そして、まさに《リュッケルトの詩による5つの歌曲》は、旋律、和声共に一定の密度を有しており、後期ロマン派から20世紀への時代の転換を導く作品なのである。《少年の魔法の角笛》をどちらかというと明るい雰囲気と位置づけ、よってマーラーの交響曲第4番に近いとすると、共にフリードリヒ・リュッケルトの詩による《亡き子をしのぶ歌》の“私はよく思う、子どもたちは…”と“私はこの世に…”は大きなスケールを感じさせ、それは交響曲第3番と第9番の壮大な終楽章に比較し得るであろう。 この辺りで、冒頭に引用したメシアンの言葉に戻って終わりとしよう。 ディルク・アルトマン ピアノ:岡本 麻子 クラリネット:ディルク・アルトマン ヴァイオリン:白井 圭 チェロ:横坂 源 岡本麻子は今日のメシアン音楽の極めて優れたピアニストの一人である。よって、このプロジェクトで彼女と共演できるのは我々にとり本当に嬉しいことである。ディルク・アルトマン、白井圭、横坂源の三人は共にルートヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズとして演奏しており、日本でもより大きな編成で定期的に演奏している。次のツアーはベートーヴェン・イヤーである2020年秋に予定。その他に、今回のメシアン・プログラムのように客演メンバーを迎えての企画も行っている。 ディルク・アルトマンは30年以上にわたり、シュトゥットガルト放送交響楽団のソロ・クラリネット奏者を務めている。オーケストラでの活動の傍ら、多くの室内楽アンサンブルでも精力的に活動。ルートヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズとシュトゥットガルト・ウィンズの創立メンバーでもある。これらのアンサンブルのために数多くのアレンジを手掛けており、国際クラシック音楽(ICMA)賞にノミネートされたセルゲイ・プロコフィエフの《束の間の幻影》の編曲などがある。最近ではモーツァルトのクラリネット協奏曲とクラリネット五重奏曲をルートヴィヒ・チェンバー・プレイヤーズ、鈴木優人と共に録音しており、TACET音楽出版からリリースされている。岡本麻子とは、フランス音楽を入れたアルバムを出している。また、数年前から日本の木管楽器工房ヨーゼフと協力関係にある。 公演ページに戻る |
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