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湯浅 卓雄 新聞・雑誌・インターネット 掲載記事
湯浅卓雄(指揮)ブリテン:『戦争レクィエム』公演批評
管弦楽:ノーザン・シンフォニア ほか
合唱:英国ハダスフィールド合唱協会、トリニティ少年合唱団
会場:ハダスフィールド・タウン・ホール


 会場のザ・セイジは音響の優れた素晴らしいコンサートホールであるが、大聖堂のような広々した空間ではない。従って、それぞれが音の世界と空間を持つ3つの演奏グループを必要とするベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」の演奏に最適の会場とは思われないかもしれない。1962年の新しいコヴェントリー大聖堂の落成式(1940年にドイツ空軍が破壊した中世の建物を再建)のために構想され、初演は進行の調和をはかるために二人の指揮者を使って行われた。そのひとりは作曲家自身である。
 ザ・セイジでは演奏を構成する3グループが、後方上階に位置する少年合唱団と共にそれぞれ配置されていた。室内楽グループと男声ソロ歌手二人は舞台上の指揮者の右側に、そしてオーケストラと合唱が舞台の残りのスペースを占めた。ソプラノ歌手はその更に後方、上階に位置していた。
 この比較的親密といえる配置には、指揮者ひとりで彼の前後に並ぶ全てを確実に掌握できるという実際的なメリットがあった。加えて、もっと深いほら穴のような場所であれば聞き逃してしまったかもしれない、ごく繊細で微妙なブリテンのテクスチャーを聴きとることも可能であった。一見してオーケストラがもっと弱いのではと思われたが、リーズに拠点を置くオペラ・ノース・オーケストラとザ・セイジをホームとする室内楽団であるノーザン・シンフォニアがなかなかよいコンビネーションをみせ、一貫して卓越した演奏をしていた。
 150人以上の人員による合唱団は、ハイドンやベルリオーズらをあれだけ感動させたイギリス合唱の偉大なる伝統を象徴するものであった。ベルリオーズが1847年にイングランドを訪れた時には、ハダスフィールド合唱協会は既に存在していたのである。その160年後の今、ハダスフィールド合唱協会はザ・セイジにおいて、このレクイエムの最も感動的な部分を囁くような美しい発声法で歌いきり、指揮者の湯浅卓雄がオーケストラとのバランスを完璧にとっていた。たった一度だけ、オープニングのレクイエム・エテルナムでチューブラーベル(チャイム)の音が大きすぎて神秘的な静けさを壊してしまい、残念ながらそのバランスが崩れたが。
 大編成の合唱団にクロイドンのトリニティ合唱団の少年たちが加わり、他は全てイングランド北部自前のこの催しに南部からの加勢となった。少年たちは自信に満ちて、天上界の雰囲気を漂わせていた。
 ブリテンはほとんどの箇所で男声ソリスト二人に室内楽を合わせている。二人のソロ歌手は、所々に13世紀のラテン語によるレクイエムが混じるウィルフレッド・オーウェンの戦争詩の言葉に表現を与えていく。彼らは、戦争の恐ろしさが今現在のものであることを描く。彼ら兵士だけが戦争がいかなるものかを知っているのである。テノールのポール・ナイロンとバリトンのグラント・ドイルの声はこの役に理想的である。二人とも叙情性をそなえ、アンサンブルの能力もあり、そして技術的に優れている。
 ソプラノのジャニス・ワトソンについて。ワトソンは、配置上、オーケストラと合唱の上方にいたが、音楽的にも両者からその声は浮き上がっていた。彼女の耳障りなビブラートは私の好みではない。公平に言えばその歌い方は、死に臨んで神に申し開きをせねばならぬことを述べた古いキリスト教典の恐ろしさや、十分に善良ではなかった哀れな人間たちを待つ筆舌に尽くしがたい結末への恐れと結びついていたとも言えるだろうが。問題は、たとえばサンクトゥスの中などあまり陰惨でない楽節になっても彼女がほとんど声を落とさなかったことだ。このソプラノの役自体にも何か原因があるに違いない。この作品の第一回ロンドン公演のリハーサル時に、ブリテンがガリーナ・ヴィシネフスカヤ(彼女は定められた立ち位置について、既に怒りを爆発させていた)にもうほんの少し声を落とすよう、何度も丁重に指示していたと伝えられている。おそらくジャニス・ワトソンは彼女が次に演じるオペラの役であるサロメに向けて、巨大なオーケストラを圧倒する練習をしていたのだろう。
 他にもうひとつだけ私にとって不本意だったのは、あの見事に訓練されたハダスフィールドの歌い手たちが、私がディエス・イレの中で期待していたほどには畏怖させるパワーを炸裂させなかったことである。聴くものがホールの外に吹き飛ばされてしまうのではと脅威を感じるほどであるべきであり、ハダスフィールドにはそれが出来る力があったと確信している。
 これらの小さな不満を除けば、これは心に迫る、そして堂々たる演奏であった。湯浅卓雄が全体を掌握して指揮をとり、寸部の狂いもないペースをとっていた。
 演奏会の後、私は知人のカップルにばったり出会ったが、彼らのうちの一人はコヴェントリー大聖堂での初演に立会い、もう一人は録音もされているロンドン初演を聴いているとのことであった。二人とも45年前の当時、「戦争レクイエム」がどれほどの大作なのか、はたまたこの曲が時を経ても残っていくのかどうかについて、いかに様々な推測が行きかっていたか物語っていた。間違いなくそれはブリテンにとって圧倒的な成功であったし、もうひとりの偉大な現代の作曲家であるイーゴリ・ストラヴィンスキーを大いにじりじりさせるものであった。最初のレコードの売り上げは、クラシック音楽の新しい曲としては空前のものであり、演奏会はどれも満員になった。ザ・セイジでかなりの空席が残っていたのは私にとって驚きであった。この空席が、この作品が現在おかれている状況を如実に語るものかどうかは私にはわからない。

ジョン・リーマン評        
ミュージックウェブ_インターナショナル_コム



 ベンジャミン・ブリテンの合唱曲の代表作である「戦争レクイエム」が、しっかり統制のとれた素晴らしい音楽集団によりザ・セイジ・ゲイツヘッドで演奏され、そのコンサートは畏敬の念をよびおこすものとなった。
 ハダスフィールド合唱協会の大勢のメンバーがノーザン・シンフォニア、及びオペラ・ノースのオーケストラと共に列を成して入ってきた瞬間から、聴衆はそれが心に刻まれるコンサートになるであろうことを悟った。
 指揮者の湯浅卓雄は、繊細鋭敏な詠唱によるレクイエム・エテルナムで作品の幕を開けた。歌うのはクロイドン・トリニティ少年合唱団で、その声はホールの後方上階から天上のもののごとく湧き上がってくる。ブリテンは3人のソリストを第二次世界大戦のそれぞれイギリス、ドイツ、ロシアの戦士に見立てて描いている。
 ソプラノのジャニス・ワトソンがひとりトップ・レベルにあったが、彼女の燦然たる発声はこのホールの音響の荘厳さを更に引き立てていた。ワトソンが「ラクリモーザ・ディエス・イラ」のリフレインを繰り返す際のコーラスとのかけあいはこの上なく見事なものであった。
 ブリテンの作品は、ミサ・レクイエムのラテン語のテキストにウィルフレッド・オーウェンの決然たる反戦詩をからみあわせている。その内容は、テノールのポール・ナイロンとバリトンのグラント・ドイルの信念に満ちた心動かす演奏によって確かに伝えられていた。
 湯浅は、その膨大なコラージュを渦巻く色彩の中へと継ぎ目なく積み重ねていきながら、完全に没頭して曲をいよいよその高みへと駆り立てていった。ディエス・イレの怒りは熱情にたぎっていた。
 最後のコードの残響が絶えると、何人かの眼には涙があった。敬意を表す拍手であった、といってよかろう。ブラヴォーを叫ぶのが場違いな雰囲気であったが、誰もが静かにそう考えていたのであろう。

ゲイビン・エングルブレック
ノーザン・エコー紙 2007年4月3日(火)付



全てのものが平和と和解というテーマのために尽くした

 指揮者というものは、われわれがその存在にかろうじて気づくくらいの時が最もよい出来であると言えるのかもしれない。湯浅卓雄が特に控えめな存在だと言っているのではない。彼の身振りは他のどの指揮者に劣らず流麗であるし、彼のこれまでのキャリアといえば国際的に大いに成功している。しかし、ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」の演奏というものは、その構成要員の力量を単純に足しただけよりも、演奏全体としての価値がずっと優れたものとなるべきである。演奏に加わるひとりひとりの貢献の大小に違いがあったとしても、そこでは将軍も一歩兵も等しくその音楽に奉仕する存在である。そして戦争レクイエムの音楽は平和と和解というテーマに尽くすものなのである。
 この作品はコヴェントリーの新しい大聖堂の奉献式のために書かれ、14世紀に建てられた元の聖マイケルズ聖堂がドイツ空軍に破壊されてから22年後にあたる1962年にコヴェントリーで初演された。そして、ラテン語の死者の為のミサに第一次世界大戦の犠牲者であるウィルフレッド・オーウェンの詩が組み入れられているのだが、このオーウェン同様、ブリテンの反戦感情は今世紀にあってもその今日的な意義を何ら失うものではない。
 第一次世界大戦中の将軍とは違って、湯浅は明確でなおかつ表現力の高いタクトの振りによって、それぞれの入りを指示し、また上階後方ギャラリーのクロイドン・トリニティ少年合唱団を監督しているデビッド・スウィンソンと協調しながら、彼の部隊をしっかりとまとめ、リードしていた。湯浅の周りには大編成のハダスフィールド合唱協会とノーザン・シンフォニアのオーケストラ、オペラ・ノース・オーケストラ、そして3人のソロ歌手がずらりと並んでいた。ソロ歌手たちは時にオーケストラの流れにのみ込まれることがあったものの、より静かなパッセージでは、テノールのポール・ナイロンとバリトンのグラント・ドイルによるオーウェンの戦士たちの性格描写がはっきりと説得力を持って現れ出ていた。彼らは「次の戦い」では冷淡なほどに平然としていた:「あそこで、私たちはなかよく死に向かって歩いた・・・」
 ソプラノのジャニス・ワトソンは上階の前方ギャラリーで歌い、彼女の「願わくば天使の歌声」は混声合唱の輝くようなサウンドから歓喜に満ちて浮かび上がってきた。

トーマス・ホール評
ザ・ジャーナル紙 2007年4月2日付



戦争の悲嘆を雄弁に伝えるパワフルなミサ曲

 ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」は、パワフルな力をもった曲であるが、最後は囁きに終わる。
最後の消え入るような「アーメン」は、この長くてドラマチックな曲中の、入念に練り上げられた他のどの部分にも劣らず雄弁に戦争の痛みを伝える嘆きの声である。そしてコーラル・ソサエティのメンバーがそのアーメンで発揮したコントロール力、声の質とイントネーションは、そこに到るまでの90分間で見せてきたどんな力量に劣らず素晴らしいものであった。 
とはいえ、最後の瞬間を特別に素晴らしかったというのであれば、この当然ながら受けのよかった演奏には他にもそのように素晴らしいところがいくつもあった。演奏にあたっては、コーラル・ソサエティとこの地域の二つの優れたオーケストラであるノーザン・シンフォニア(ニューカッスル)とオペラ・ノース(リーズ)のオーケストラメンバーが共演している。
 この大編成の歌い手と奏者たちを指揮したのは湯浅卓雄だが、彼の指揮によってこのレクイエムが持つ様々なムードが、苦悩や悲しみから苦味の効いたアイロニーに到るまで、完全に捉えられていた。
この作品は、少なくとも6世紀にもわたり数知れぬ作曲家たちによって曲をつけられてきたミサ・レクイエムのラテン語の詞に、第一次世界大戦中の塹壕で亡くなったウィルフレッド・オーウェンの詩が組み合わされている。宗教的な感傷に対してオーウェンがとった厳しい関係が、この「戦争レクイエム」にはなはだしい内面的葛藤を与えている。
 ソリストたちの中ではテノールのポール・ナイロンがオーウェンの声を効果的に演じ、極めて感動的なこのテキストへの共感を示していた。
バスのグラント・ドイルとソプラノのジャニス・ワトソンも印象的であった。
クロイドンのトリニティ少年合唱団はギャラリーに配置されていた。子ども達は彼らの責任を十分立派に果たしていた。とはいえ、ハダースフィールドほどの地域で自らの少年合唱団を招集できないのは残念なことではある。

記事:ウィリアム・マーシャル
ハダースフィールド・デイリー・エグザミナー紙2007年3月31日付



 宗教は戦争を引き起こしはしない。しかしながら宗教は、人々の心に入り込んでパワーを手にしようと試みる者達が、彼らの創造主の名において殺し、傷つけるための手段を与えるのである。
まずはこれが、ベンジャミン・ブリテンの「戦争レクイエム」の根底に横たわる主題であり、自ら宗教を持つことはなかった平和主義者ブリテンの平和への叫びである。
 運命の定めか、私はこの作品を幾度となく聴いており、またその録音も数多くある中で、私も一度、録音をプロデュースしている。それでいながら、ハダースフィールド・コーラル・ソサエティによるこの度の演奏ほど深く感動した経験はほとんどない。
 この合唱団は男声部が通常より大勢で、それをベースにした重く厳粛な声調を備えている。典礼文から男声ソリスト二人による戦争シーンの描写に移る際には、ディエス・イレ(「怒りの日」)の爆発的な力強さが、畏怖と戦慄の効果を十分に挙げていた。クロイドンのトリニティ少年合唱団は並外れた確実さで歌っており、それは天使の、と形容するよりは、地に足の着いた着実な演奏であった。かわってわれわれを天界へと誘ってくれたのはコーラスの中の女声であった。ジャニス・ワトソン、ポール・ナイロン、そしてグラント・ドイルら3人のソリストたちは素晴らしい出来で、ナイロンは感情のこもった歌詞にオペラ的なアプローチでのぞみ、死せる兵士の暗く運命付けられたデュエットでは男声が完璧なバランスを見せていた。
 ノーザン・シンフォニアの各首席奏者は室内楽メンバーとしてまさに一流であった。そしてオペラ・ノースの弦楽セクションが時折あたふたと綻びを見せたものの、オーケストラ全体としては、手際よく伝達力のある湯浅卓雄の指揮に適切に反応していた。湯浅の作品全体への共感とペース作りは全く理想的であった。

記事:デビッド・デントン
ハダースフィールド・デイリー・エグザミナー紙2007年3月31日付




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